美術館・美術展

ジャコメッティ展 本質を見ようと心を研ぎ澄ますと余計なものが削り落とされるのだろうか 

今日は国立新美術館に、アルベルト・ジャコメッティ展を見に行ってきました。

私は基本的に「〜美術館展」よりも、一人のアーティストの名前を冠した展覧会の方が好きです。それはたぶん、作品を見るというだけでなく、そのアーティストの人生や人間性に興味があるからだと思います。

今日見に行ったジャコメッティは、作品はいくつも目にしているのに、それ以外はほとんど知識ゼロ。容貌どころか、いつの年代?どこの国の人なのかも知らない状態でした。

なぜあんなに細長〜い作品を作るようになったのか?そのことを知る鍵は見つかるのかしら?

そんな期待を胸に会場に向かいました。

そしてジャコメッティは、私の期待を大きく超えた彼の魅力を私に見せてくれました。

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ジャコメッティは、見たものを見たままに描くことにこだわり続けたというのです。

(えっ、あんなにデフォルメされているように見えるのに?)

しかしジャコメッティにとって見るという行為は、私たち凡人からは想像もできないぐらい長時間にわたって、見続けるということを意味していました。

ジャコメッティはこう言っています。

「私にとって、現実は決して芸術品を作るための口実ではなかった。そうではなく、芸術は、私が見るものを私自身がよりよく理解するのに必要な手段なのです」

 

ジャコメッティはモデルを見続けたそうです。そして何日も何日もかけてモデルを描きました。(緻密な写実画ではなく、デッサンのようなものばかりでした。)

雇われたモデルたちは根をあげてしまい、結局、多くの作品において彼のモデルであり続けたのは、妻や弟であったそうです。

同じように、何日も見続けて作品を制作する画家として、セザンヌがあげられていましたが、セザンヌは静物画や風景画が多いので、そんなエピソードはないのかな?

また調べてみよう!

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彼にとって、今見えている現実の姿とはどのようなものだったのでしょうか。

そう考えると、今私が見ていると思っている現実が、なにかうわべの「視覚」という感覚器官だけを使って見ている映像に過ぎないのではないかと思えてきます。

ジャコメッティは見続けて、見続けて、多くのあの細い彫刻作品を作り出しました。

「本質を見ようと心を研ぎ澄ますと、余計なものが削り落とされるのだろうか」

今日は、そんなことを考えながら会場をあとにしました。

これから世界中でジャコメッティの作品を目にすると思いますが、今日、ジャコメッティ展に行ったおかげで、ジャコメッティと彼の作品に対する愛着がぐっと湧きました。

そのときが楽しみです。